2004年10月の日記 連絡先(e-mail)
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20041101 予算作業一区切り?
 チョンゴ氏達が今回で5回も書き直した予算書類の入力は8時から初めて12時半頃にやっと一段落した。NSCの自分のオフィスにムカンダ氏、チョンゴ氏、ルスが入ってきて4人で作業。途中でルスが移動したが、自分のオフィスでザンビアのスタッフと作業するのはなかなか楽しかった。チョンゴ氏はルスから風邪をうつされたとかで、調子が悪いとのことだった。

 それでも、チョンゴ氏以外は、おしゃべりや電話で作業が頻繁に中断。すごく急いで作業しているつもりなのは分かるのだが。

 予算作業の後、今日は午後ムルングシにいるからと宣言して借家へ。軽食を取ってからJ****事務所へ向かった。事務所でVAT(付加価値税)免除レターとゆうパック2箱、90歳の祖母からの手紙を受け取った。

 免除レターを持ってGAMEに移動。ペンキ、グルーガン、延長コードなどを購入しようとレジに並んだら、どうやらレジ打ちの女性にはVATを合計額から差し引く計算方法がわからないようだった。結局、10分ほどもそれがわかるスタッフが来るのを待たされた。

 夜、PCで作業をしようとするとワード2000が壊れていた。すぐにエラーメッセージが出て文書が更新できない。一時間ぐらい格闘したが直らないので2003年版のオフィスをインストールした(2000版のCDは日本に置いてきた)。そうすると壊れていたワードも復旧した。もちろん、今も古いワードを使っている。

20041031 予算作業
 6時に起きて、7時からの朝食に間に合うように身支度。昨晩机の上に置いたパンにたくさんアリが集まっていた。

 食事のあと8時頃からカンファレンス・ルームで作業開始。昨日のように29ある来年度のアクティビティ毎にアサンプションを作って、それらを点検した。アサンプションが全部終わってから、それらを財務省の様式に転記する作業があった。

 ホテルでは、10時と15時にお茶、コーヒーかソフトドリンクの時間がある。その時に、ビスケット、スポンジケーキ、サンドイッチなどのつまみもあった。しかし、イスに座ってPCの鍵盤をたたいているだけなのに7時の朝食、13時の昼、19時の夕食の他に軽食もあるものだからお腹が苦しかった。  お茶の時間が近づくと、A4の上質紙を半分にちぎった紙片がまわってくる。そこには、飲み物の種類が鉛筆かボールペンで書いてあるので、希望の飲み物の下にチェックをつける。これが注文の仕方。

 昼食のメニューも同じような紙に手書きしたものを見せられて、スープ、肉・魚などを選ぶ形式だった。NSCのシニア・オフィサ達はハムに味がないとか、希望したのと違う味のソフトドリンクだとか、かなり文句を言ったり、注文を加えたりしながら食事していた。

 アサンプションが終わったのは夕食前、転記が始まったのは夜の8時頃だった。でも転記作業は思いのほか順調に進むのだ、この調子なら夜の11時頃にはなんとかなるかなと思って作業していた。ところが、9時近くになるとムカンダ氏と所長のムンゴ氏は雑談ばかりしていた。ムカンダ氏に、転記後に入力するアイテム・コードなどを資料から探して教えてほしいと催促してもおしゃべりばかり。彼らは、月曜に提出の書類なのにもう作業はあきらめて明日(月曜)に続きをするために今日は切り上げることを決めていたようだ。

 借家に帰れるのは一安心だが、彼らが作業に執着しないので驚いた。作業を中断し、PCやプリンタを車に積んでホテルを後にした。

 お店が閉まっていた時間だったので(コンビニエンス・ストアや自動販売機はありません)中国飯店に寄って紹興酒を一本購入し、ムルングシに戻った。

 戻ってから、荷物整理と洗濯をした。ハチに刺された指はもうほとんど元と同じ太さになった。

20041030 腫れた指で入力
 朝は食欲が無く、ムカンダ氏とチョンゴ氏と食堂にいってもパン二切れとジュースだけですませた。8時頃になって部屋の荷物を一旦車に全部移し、作業をするカンファレンス・ルームへプリンタなどを運んだ。

 所長や秘書のルス、ドライバーのテディーも来ていよいよ作業開始。

 でも、こちらはときどき書類作成について注文をたどたどしい英語でつけるだけで、もっぱら彼らが要求するようにエクセルのファイルにデータを入力していった。

 午前中に1回、午後に1回の飲み物休憩と昼食を挿み、18時すぎまで作業したが、どれだけの進捗状況かよくわからなかった。

 夕方に昨晩と違う部屋へ移動した。なかなかととのった様式の広く清潔で格調高そうな?ダブルベッドの部屋だった。しかし、昨晩と同じようにバスタブはあるがシャワーはなかった。

 夕食を食べてから、バスタブにある2つの蛇口をひねってみたがどちらも熱くない。それでも根気よく出し続けると青いマークのある蛇口からかすかに暖かい水が出ていた。もしやと思って洗面台の蛇口も開けてみるとバスタブにある青マークの蛇口からも熱いお湯が出るようになった。給湯の不思議?か。そこで、バスタブに少しお湯を溜めてからそこで体を洗い、借家から持ってきて空になった2リットルのペットボトルに蛇口から出るお湯と水を入れては頭からかぶりシャワーの代わりにした。

20041029 GARDEN HOUSE HOTEL
 オリバーとムエンベに協力して仕事をして早く帰宅してよいと伝えてからNSCへ。

 ムエンベ氏によると今晩から2泊ホテル(このときはモーテルと言っていたが、あとで現場に行くとホテルと書いてあった)に泊まって予算の書類をつくることになったそうだ。自分も18時までに現地に行くように指示された。夕食は20時だとと付け加えられた。

 帰国(帰ザ)してからゴム動力飛行機とグライダーづくり、それと本棚の作業を少々した他は見積りを集めたぐらいで仕事らしい仕事をしていないが、NSCでは毎日何かしらやっていた。今日はウンデケが伸び縮みするマジック・ハンドのような道具を操作しているので説明してもらったら手動でリベットを鉄板などにとめる道具だった。操作しているところを初めてみて面白かった。

 午前中は昨日切ったグライダー用の紙を最後まで組み立てた。先端には機体の形にそっておもりになるように切り出した4ミリの合板をつけた。試験飛行は極めて良好だった。

 午後、ムカンダ氏がこれからファンクションがあるので写真を撮ってほしいと言ってきた。ファンクションは辞書でチェックすると式典。自分が日本に行っている間に、ビジネス・スクールのような学校で所員の何名かがオフィスとは何かとか、職場の安全管理はどうするのかとかの研修を受けたようだが、その終了証明書を渡すセレモニーがあるのだ。

 センターの庭にある東屋のようになっている所に全員が集合してムカンダ氏の司会でファンクション開始。研修にあたった講師や所長の話、それと参加者からの発言などを交歓し、ソフトドリンクを飲んで終了。その間にムカンダ氏の指示で写真を撮った。

   エルビスが欲しいと言ってたグライダーの型紙を作って彼に渡したり、司書が頼みにきたNSCのチラシの校正をしたりしている間に、借家に戻ってホテルに行く準備をしなければならない時間が来た。

 作業を中断してムルングシに戻り、シャワー・洗濯・軽食などを済ませてから出発。アーケイドでちょっと買物をしてルサカの市街地から少し西にあるGARDEN HOUSE HOTEL へ向かった。

 約束の18時ちょっと前にレセプションについて、NSCのものだが他の所員は到着していないかと訪ねると、まだ誰も着ていなかった。そこで、ホテルの外で30分ほど待ったが、やはり誰も来ないのでレセプション前で読書をしながら待っていた。そうしたら、親切な店員が部屋の鍵を渡してくれて、食事もすぐにとれると伝えてくれた。

 言われるままに荷物を運んで、バイキング形式の夕食をすませた。ザンビア人ばかりの宿泊施設ははじめてなので新鮮な印象だったが、施設はちょっとくたびれていた。  夕食の後に部屋でくつろぎ始めていたら、ムカンダ氏、チョンゴ氏の順で到着した。もう9時近くになっていた。今晩は、チョンゴ氏と同室で、ムカンダ氏は別室に泊まり、所長などは明朝早くくるそうだ。

 彼らが遅い夕食をとる為に食堂に行くのを案内し、彼らの食事が終わってからラジオを聞いたりお酒を飲んだりしながらチョンゴ氏と雑談して夜を過した。

 深夜にトイレにいったところ、バスルームの電気をつけたままだったので蜂(たぶんミツバチ)が開いていた窓から入ってきていた。ブンブンうるさかったがそのまま用をたそうとしたら、右手の人差し指に激痛。一匹の蜂が刺して、指の腹にしっかり針が残っていた。左指で急いで針を取り去って、毒を吸い出したが、かなり痛い。続けて、その直後に今度は右ひじの内側に痛み、また針が残っていた。同じように針を取り去って、毒を強く吸い出した。ほんの数秒の間に2回も刺されてびっくり。借家から持ってきた殺虫剤を散布したが、トイレ(バスルーム)からは虫の羽音が明け方まで聞こえていた。

 結局、指とひじの痛み、それと右目の上と右耳の腫れのせいで朝まで熟睡できなかった。

20041028 エクセル
 新潟中越地震の崖崩れで埋まった車から助けられた子供と埋まったままの子供の安否をウェブで調べたり、アラファト氏の容態をBBCで聞いたりしながら朝の準備をした。  オリバーは12月4日の結婚式の招待状を封筒に入れて持ってきた。

 オフィスでグライダーの型紙を4機分切り取って、胴体のパーツだけ糊付けしてからタウンに見積りを取りに行った。

 健康管理で帰国する前に申請しておいた業務費を既に受け取っているが、それを有効に利用する為には付加価値税(VAT)免除のレターをJ***事務所から出してもらう必要がある。(要するにVAT免除書類があると、約1割5分引きで商品が買えるのです)その為に、一件の品物について複数の見積もりが必要なのだ。見積書をお願いする為に、オリバーの運転で、ミクマー、ウッド・プロセッシング・リミリテッド、ルサカ・ハードウェア、ステイショナリー・ワールド、ステイプルズ・リミテッド、カポヴ、それとマンダ・ヒルのGAMEを回った。

 オリバーには車外で車を見張りながら待つようにしつこく注意するが、車内に窓全開でのんびり待っていたり、注意散漫だったりで心配だ。ガンポイントされやすいぞ!と言ったが、彼の事だから次には忘れているかもしれない。

 予定していた見積書が集まったので、ムルングシで軽食を取ってからNSCに戻ると、チョンゴ氏が予算提出の書類が出来たかと迫って来た。そういえば要求されていた来年の月ごとの活動に必要な金額を記入した書類が未完成だった。チョンゴ氏はすぐにCDC(カリキュラム開発センター)に出かけたが、大急ぎで書類を作ってムカンダ氏にチェックしてもらい。30分後にはムカンダ氏とCDCに向かった。

 ムカンダ氏は小児麻痺の後遺症で今でも松葉杖生活だ。彼は、CDCの2階に上がる為に階段を一所懸命一段ずつ上がっていた。当地では、動いているエレベータは見た事が無いし、バリア・フリーという言葉も聴いた事が今のところ無い。肢体不自由な人には本当に不便な場所だ。

 立派な会議室でチョンゴ氏と合流し、今後の書類作成について雑談。チョンゴ氏はエクセルファイルに予算を落とさなければならないというので、FDに雛形のファイルをコピーしに行った。

 チョンゴ氏が戻ってきてNSCに戻ろうとすると、ちょうど書類作成について詳しいCDCのスタッフ(こちらからは名刺を渡したのですが名前がわかりません)が入力方法を説明してくれるということになり彼のオフィスに向かった。

 一つのアクティビティ毎に4種類の書類をエクセルで作らなければいけないことが彼の説明で分かった。チョンゴ氏はこれまでに来年度予算の書類を4回も書き直してきたそうだが、さらに今日説明を受けたフォーマット(書式)で月曜朝までの全部作り直さなければならないのだ。

 説明を聞いているうちに、別のオフィサーがやって来た。彼は、デスクトップPCを起動して延々とエクセルの使い方を実演し始めた。基本的な計算法や入力法をチョンゴ氏、ムカンダ氏、自分に対して自信たっぷりに話していた。(ちょっと違うでしょうという部分があってもだまっていました)彼の話は終わりそうも無かったが、偶然彼に電話がかかって来てそちらの会話が延々と続く間に我々はオフィスを後にした。

 NSCに戻りムカンダ氏、チョンゴ氏とともに所長に書類作成の件を報告すると土日返上で作業すれば何とかなるだろうとの返答。でも、エクセルへの入力はあんたに任せたよと指名されたようだ。これもボランディアの仕事としてありがたく引き受けよう。

 結局、グライダーは胴体だけしか作れず今日は終了。NSCのスタッフが家路についてからVAT免除レター作成依頼書を作ってからJ***事務所と買物に向かった。

20041027 オリバーの前借り
 朝、オリバーがレターを作ってきて家賃が払えないのでお金を貸してくれと言ってきた。すでに、2年分のクリスマスボーナスも無いし、学費を毎月の給料から引いているので、残り少ない退職金から差し引くと、これ以上の前借りがないと仮定すれば(?)退職金は約1000円になる。

 それでも急いでいるようなので、ドルから換金した大切なお金を封筒に包んで渡し、領収書にサインさせた。ついでに、退職金額とクリスマスボーナスの額も確認のためにプリントして渡した。

 NSCでは、見積りの依頼書作りとグライダーの図面の修正。時々、エルビス達と雑談しながら作業した。270グラムのアート紙(ボール紙の一種)に図面を描くのはなかなか時間がかかる。手作業だと1時間で3機分くらいしかつくれない。でも、今日作成したのはなかなか飛行が安定しているので、これをサンプルの一つにすることに決めた。

 J***事務所には日本から監査チームが来ザ。書類を広げたり、面接をしたりして忙しそうだった。
20041027 所長帰国、ジグソウ直る
 NSCの所長はベトナムの理科教育会議から帰国した。途上国が理科教育振興の現状を報告しあう会議だったらしい。来年はザンビアで開催するように所長は政府に働きかけているそうだ。だめならスーダンになるとか。彼は、香港からジョナネスバーグまで12時間以上飛行機に乗ったのでかなり疲れている様子だったが、別の地域を見聞してとても参考になったと話していた。お箸を使って見たが、あのアートは自分には無理だと言っていた。お昼御飯の後に、レイチェルが所長の土産と言ってチョコレートを一切れくれた。

 ウンデケは葬式から戻って仕事を再開。サイエンスパークの塀になる0.4ミリ厚の鉄板をすごい音を発てて切っていたので、近寄ってみるとブラシが磨り減って動かなくなっていたジグソウを使っていた。ルサカ・ハードウェアで購入したブラシで直ったようだ。手に入る材料でなんとかやりくりするところが当地らしいが、それ以上に彼の腕は確かなのだと思う。

 オリバーに作らせた最後のゴム動力飛行機(一番小さかった)は、散々な仕上がりだった。余りにも翼がしわくちゃなので、オリバーの見ている前で翼に水をかけて、後でピンと張るからと説明した。

 オリバーが一度ムルングシに戻ってムエンベと庭や畑の肥料にする鶏糞を買いに行っている間に、飛行機の翼に貼った紙をハサミで切り取ったり、剥がして貼り直したりした。ついでに、翼断面を整えるために3層に張り合わせたボール紙で翼の縦方向の骨組みを説明書には無かったが4本追加した。

 NSCに戻ってきたオリバーが見せたムエンベのメモによると、ムルングシの近所で鶏糞が入手できなかったから、かなり遠方までドライブして12袋も鶏糞を買ったようだ。でも、そのガソリン代は誰が出すんだろう。遠出するなら前もって許可を取るように明日しからなければならない。それでも12袋あれば、雨季を経て来年まで余裕で持ちそうである。

 飛行機は試験飛行すると、真っ直ぐ安定して滑空した。動力飛行でも直進するので一安心。昼食後にオリバーと緒にカブロンガ男子高校のグラウンドで試験飛行をした。これまでに作った他の2機も一緒に飛ばしたがどれも満足すべき飛行。風かトルクのせいで旋回しながら飛行したが、見物していた男子生徒達も感心していた。これは何の実験か、物理の実験なのかとか質問されるので、ただのpleasureでやっているのだがと答えた。でも、彼らが物理の実験と思ってくれるなら堂々と物理だよと言ってもよいと思った。

 調整が必要だった一番大きな飛行機も上反角を大きくしたところ安定した飛行だった。でも、途中でグラウンドの端にある火炎樹に引っかかってしまった。ある生徒が1000クワチャで取ってやるといったからまかせたが、見事に枝を揺すって落としてくれた後にお金は要求して来なかった。なかなかさわやかな生徒だった。

 午後は、J***事務所でS氏と教育分野の打ち合わせ。2時間ほどいろいろ話して勉強になった。またK調整員から隊員対象の研修会についてもまずルアンシャのS隊員の任地でどうですかと返答があった。S氏関係の研修会の予定にもルアンシャは含まれていたので、3学期終了後のターム休みに実施する方向で準備を進めたい。

 写真は昨晩食べたエチオピア料理。薄いパンケーキ(エチオピアのシマとお店の人は説明していた)のようなシートにおかずの食材をはさんで手づかみで食べるが香辛料がちょっと苦手と感じた。
20041024・25 独立記念日と振替休日
 日曜が独立記念日なので翌日は振替休日で休み。日曜は朝からご飯を炊いて冷凍し、シーツの洗濯や買物、水撒き、掃除などの作業をした。健康管理で日本に向かった日からちょうど一ヶ月たってこちらの生活のペースが戻ってきた。

 庭で水撒きをしていたら、編み物をしながら歩いてきた二人の女性が仕事をしたいので雇ってくれないかと言ってきて、料理ができるからと自分を売り込んだ。すでにメイドさんもいるし、この近所の日本人も使用人がいるから難しいと答えた。彼女達は二人で一つの編み物をしていたようだ。

 裏庭側では、まだ枯れ草の残り火がくすぶっていた。煙が借家側に流れて来るので、折角の連休中ずっと煙たかった。月曜になってもまだ火を点けていたが、コブラや害虫を防ぐため?それとも焼畑でもするのだろうか。

 日曜の夕方になって、風が弱くなって来たのでNSCの隣にあるカブロンガ男子高校のグラウンドでゴム動力飛行機を飛ばした。大きさの違う2種類を持っていったが、小さな飛行機は急上昇し旋回しながら滑らかに着陸。大成功だった。大きい方はまだ調整が必要(プロペラが割れてしまった)。小型版に似た製品をこちらでつくれると良いのだが。

 朝から飛行機やヘリコプターの爆音がするが、商店街の飾り付けと、少々の安売り以外は記念日を実感できなかった。でも、この日はザンビアにとって良い事がもう一つあった。夕方5時頃にレンタル・ビデオのブロック・バスターに行くと、TVの前で人々が歓声を上げていた。何を見ているのかと画面をのぞきにいったら、ちょうどサッカーのザンビア対ジンバブエ戦でPKをしているところだった。ザンビアが勝った直後には、お店の中にさらにたくさんの人が入ってきて、勝利を確認して騒いでいた。

 この日はWEBを通じて新潟中越地震の続報を確認したり、ザンビア独立40周年の記事をチェックしたりした。BBCのサイトでは新潟中越地震の詳しい写真を7枚紹介していたし、ザンビアの40年間を簡単にまとめた11枚の写真もあった。以下は、BBCのザンビア独立40年の写真についていた説明文の和訳(間違いがあるかもしれません)

英国からの独立闘争後に、ケネス・カウンダが1964年10月24日に初代大統領に就任した時、ザンビアはアフリカの最も輝ける星と思われていた。カウンダは、カッパーベルト洲での鉱業に極度に依存した経済を英国から引き継いだが、その頃のザンビアの経済規模は韓国とほぼ同じであった。当時、ザンビアは、ローデシア(現在のジンバブエ)と南アフリカの両方で黒人の民族主義闘争に高い代償を支払っていた。

 カウンダが基幹産業を国有化し、複数政党を禁止したことを、元英国首相マーガレット・サッチャー(ザンビア生まれ)は承認しなかった。

 ザンビアは「口に銅のスプーンをくわえて生まれた。」と言われ、銅の輸出により1960年代にはアフリカで最も豊かな国だった。しかし、銅価格の暴落により経済は急激に下降した。人々は、廃坑の前で岩石を砕いてそれを売る境遇に陥った。

 1991年になって変化が訪れた。食糧暴動により、カウンダは複数政党の選挙を認め、選挙の結果、元労働組合員(?) フレデリック・チルバが勝利し、彼はさらに5年後に再選された。チルバは高い生活水準を公約したが、実現しなかった。1999年までに、約90,000人の子供が厳しい路上生活を送るようになってしまった。その多くは、エイズ孤児であった。

 カウンダはザンビア経済の没落を目の当たりにしてきたが、彼は親族の一人がエイズで亡くなったことを認めた最初のアフリカのリーダーとして称えられた。

 一方、チルバは2001年に政界を退いたが、80件4000万ドル相当の横領で訴追された。(現在、6件50万ドル分に下降修正された。)チルバの後任は、経済の多様化を図っているが、ザンビアの将来像は楽観できる状況からは程遠く、今も国民の6割以上が1日当たり1ドル未満で生活している。独立時に同規模だった韓国経済は、今日ザンビアの100倍である。


 月曜も朝から水撒き、アイロンがけ。でも、メイドさんが休みの日なのに来てくれたので難しいアイロンがけはまかせてしまった。

 メイドのバンダさんは、先日帰国したN氏から一抱えもある荷物(鏡、食用油、バケツ、板などたくさん)をゆずってもらっていて、自分の借家に一時置いていた。彼女は、それを仕事が終わるたびに少しずつ持ち帰るつもりだったようだ。でも、かなりの量なので車で彼女の家まで荷物を運ぶ事にした。

 ムルングシからそれほど離れていないコンパウンドだったが、未舗装で凹凸のはげしい道をゆっくり走行しなければならなかった。何度か車の下をすってしまった。彼女は5人の娘と一人の息子とともに、自宅の隣に仮住まいしていた。(この日はそのうち4人の子供に会えた)屋内には自宅の屋根用のスレート板がおいてあった。なぜ屋根材が置いてあるかというと、仮住まいしている建物の隣にある彼女の家は先週の月曜日にくずれてしまったからだ。幸い修理費は帰国したN氏が援助してくださったそうだが、むき出しのブロックをモルタルでつないだだけの家は、まだしばらく修理に時間がかかりそうだった。雨季の前に直るとよいのだが。

20041022・23
 22日の朝、ムエンベは免許証(仮)を見せてくれた。おめでとう。

 NSCに向かったが1時間ほど資料整理をしてムルングシに戻り、Y氏とともにルサカ国際空港へオリバーの運転で向かった。今日は、U氏が2年の任期を終えて帰国。ケープタウンなどで観光されて日本に向かうそうだ。

 ところが、空港の掲示板にはU氏の乗るサウス・アフリカ航空の飛行機が表示されていなかった。U氏が空港の係員に聞いてみたら入力を忘れていたことがわかった。  U氏の見送りの後、ムルングシを経由してNSCへ戻った。

 NSCでは、明日の日本人子女スタディー・グループのためにグライダーの型紙作り。3種類ほど試作機をつくって、一番良い機体を選び、そのパーツを厚紙に書き写していった。たった6機分だが、なかなかたいへんだった。(午後全部を使った)

 23日の朝。今日は第四土曜日なので、8時半に警備会社がパニックボタンの点検に来る予定。8時25分頃に外が騒がしくて、その後すぐ担当者がベルを鳴らした。彼はこころよく靴を脱いで屋内に入り無線機を片手に玄関、台所、寝室前の鉄格子扉横、寝室にあるパニックボタンを順に押して会社での受信状況を確認していた。最後に無線になっている小さなボタンも確認して点検終了。

 9時からのJ***でのスタディー・グループでは、中学生達に光合成の説明をした後、小学生から中学生を対象(本日は5名だけ)に昨日型紙をつくったグライダーの製作。早い生徒は20分位、小さな小学生は40分位で製作完了。大会議室で試験飛行をしたが、なかなかちゃんと飛んだので一安心だった。

 J***事務所の駐車場から空を見ると明日が独立記念日のせいか軍用機が編隊で頭上を飛んでいた。迷彩の双発のプロペラ機が3機、他にヘリコプターも朝から飛びまわっていた。燃料代は大丈夫なのだろうか?

 午後、借家でくつろいでいると隣家との境部分に火の手があがった。どうやら草を刈り取って積んであったものに火を点けたらしい。しかし、自分の借家側の敷地にも延焼しそうなので、ホースで水撒き。でも、こちらが消火している間に、垣根の向こうでは小さな男の子が火を木の棒に移しては、別の場所にひろげっていった。一旦火が消えたので借家に戻ったが、しばらくしてまた発火。今度は家族で水をまいて消していた。

 夕食を中国飯店でとり、ナオミに明日の独立記念日の予定は?と聞くと。何も無いとのこと、彼女によると週7日、クリスマスも休み無く働いているそうだ。「独立って何?」って聞かれたから。「自分の考えでなんでも決められる事だよ」答えた。

 夜に、バチパチする音が聞こえたので、外を見たらまた火が起きていた。枯葉の部分をすべて焼いて、なんとか自然に鎮火。残り火で発火したのかな?それともわざわざ火を点けたのか?自分の借家までの間に燃えやすい物が無いから安心して鎮火まで見ていたが、そうでなかったら消防車を呼んでも良いほどの火勢だった。 (借家が火の風下なので、なかなか窓が開けられなくてこまった)


20041021 本棚組み立て開始
 ムエンベは、自動車免許の試験予約と受験のためにお金が必要と言ってきた。退職金から引くけどいいかと確認してお金を渡した。

 NSCに着いて、オフィスの掃除をしてから、ゴム動力飛行機の主翼と胴体の取り付け部分を補強。その後、テクニシャン達が裁断してくれた本棚用のシャッタード・プライ・ウッドをくみ上げるために、底板になる部分に切れ目を入れた。すでにオリバーにあたりをつけて鉛筆で切り取る所に印をつけるように指示してあったが、自分で測ると全部18ミリずつずれていて、結局全部やり直した。

 ドリルと昨日買ったジグソウで作業をしようとしたが、ジグソウための延長コードがない、エルビスに借りたらプラグにむき出しの導線をつけて、それにやぶったポリエチレン袋を巻きつけて絶縁。これまでも見慣れた光景だったが、アフリカに戻ってきたと思った。

 作業中にNSCの来客がカメラモデルを見せてくれとのこと。アグリカルチャル・ショーのときにも生産していないのかと聞いてきたお客さんだ。まだ生産していないと謝った後、日本から持ってきた100円ショップの拡大鏡のレンズを一枚渡したら、自分で作れるとすごく喜んでくれた。(貴重なレンズなのだが)

 合板の切り目になる部分をなんとか切り落とし、すでに出来ていた支柱用の板を組み合わせようとしたら、板が入らない!エルビスに聞くと、この合板は19ミリ厚だから18ミリの切り込みには入らないとのこと。買ったときには18ミリと思い込んでいたのでそれで全部の図面を作ってしまった。もちろん切り込みはどれも18ミリ。でも、ムベルバとエルビスがなんとか組めるようにしてくれると言ってくれたので、彼らにまかせてN氏の見送りに行く事にした。

 ムルングシの借家にY氏が迎えに来てくれて、Y氏の車でルサカ国際空港へ向かった。雨季の走りがあったというが、帰国してからは全く降雨が無く、今日も風はあるものの晴天。空港までの道を快適に走った。

 空港では、ZASTIの関係者やN氏の教え子さん達、それにSVやS建設の方々、隊員、J***関係者などがN氏との別れを惜しんだ。日本から持ってきたフジのインスタントカメラ(初代チェキ)で2枚N氏夫妻に写真を渡した。

 見送りの後、ムルングシで少し休養してからNSCへ。ワークショップに戻るとエリビスとムベルバが本棚と支柱のになる板をくみ上げてくれていたのでびっくり。一人ではできないから、すごくうれしかった。

 明日は天板をつけようと思うが、中央の板が4ミリほど飛び出している。でも、二人がいうには天板に溝をつけるから大丈夫とのこと。さすがに木工の専門家で心強い。

 本棚のチェックをしている間にムエンベから携帯に電話。免許試験に合格したので、temporary license を明日見せに来るとのこと。おめでとう。

 風が弱くなっていたので、ゴム動力飛行機の試験飛行をNSCの敷地内で行った。ゴムを一杯に巻いてから飛ばすと30mくらい上昇して、ゆっくり滑空して戻ってきた。まあまあの飛行ぶりで一安心。

 ザンビアは24日が40周年の独立記念日、ムルングシの事務所やスーパーマーケトットには、緑(ザンビアの自然)、赤(独立闘争での流血)、黒(国民の肌の色)、黄(天然資源を表す)の布地がかけられている。でも、この配色って、日本から持ってきた有名なお茶漬けの包みと同じだ。

 夕刻、散歩のあと中国飯店に行くと、カメラ(チェキ)を持ってきたかと従業員がいうので、あるよとの返答。結局、店内で仕事をしているほとんどのザンビア人の写真をとってプレゼントした。

20041020
 朝、そろそろ出かけようとしていたらN氏夫妻が車で借家までいらっしゃってネジ・釘・工具・パーティクルボードなどをゆずってくださった。NSCで、それらを仕分けしたら1時間以上もかかってしまったほど大量だった。

 今日は、ウンデケの妹がNSCに来ていた。顔つきがそっくりなので紹介される前にすぐわかった。彼女がいたのは、彼の義理の母が他界したのでこれから東部洲に葬儀に兄と出かけるからだそうだ。(たった一人金属加工ができる所員なのに)

 10時近くになってオリバーと出かけた。まず、給油(1リットルが約1ドルになっていた)してから、マンダ・ヒルでドルをクワチャに両替してタウンに向かった。タウンではジグソウのモーター用ブラシを探したが、最大のハードウェア・ショップ(ミクマー)にあった最も近い形の製品はペアで7.2万クワチャだった。12万クワチャで買った商品の修理代としては高額なので見送り、結局ルサカ・ハードウェアにあった2.65万のブラシを買った。ただし純正品は見つからなかったので、このパーツでジグソウが直るとは断言できない。

 車で移動してインド人の経営する(ミクマーもルサカ・ハードウェアもインド人系商店)カイロ・ロード近くの文房具店に行こうとした。お店の前にオリバーが車を停めたところ、道路の反対側で人が騒いでいた。オリバーによると婦人の荷物をひったくった犯人が取り押さえられて、暴行を受けているとのこと。興奮した人々が押し会いながら叫んでいたが、犯人がどうなったかまでは見なかった。(見たくなかった)

 文房具店でA4用紙とHPのインク・カートリッジの見積りを貰ってから、マンダ・ヒルの別の商店でもインク・カートリッジの見積りをとった。後者の方が安かったのだが、いずれの商店も日本で購入する約3倍の値段。改めてハイテク製品を生産していない国、生産地から陸路でしか物を輸送できない国の不便を思った。

 結局、ブラシの他に新品のジグソウも一台購入してNSCへ。

 午後は、業務費の精算の準備、ゴム動力飛行機の試験飛行などの作業をした。飛行機は強風下なので思った飛行ができなかったが、作るのも、飛ばすのも楽しいので、当地で生産できるととてもうれしい。
20041019 ジグソウ壊れる
 オリバーの運転でNSCへ。 

 まず、昨日作りかけだったゴム動力の飛行機を仕上げた。飛行機を作っていると、仕事をしているというより遊んでいるようで少し後ろめたいが、なかなか楽しい。昨日組み立てる前にテクニシャン達に聞くと、ザンビアでは類似の商品は見た事が無いとのことだった。できあがった飛行機を興味深そうに見てくれて、ワークショップ内での試験飛行を一緒に楽しんだ。屋外は強風なので外で飛ばすのはまたの機会へ。午後にもう一機製作した。

 エグゼクティブ・オフィサーのムカンダ氏がオフィスにやってきたが元気が無かった。知人の夫人が無くなったとのこと。そうでなくても24日の40周年独立記念日準備の為にガバメントの車が全部動員されていて、その手配などで深夜まで忙しいのにと話していた。

 ウンデケ(ヘンリー・キッシンジャー君)とムベルバが波型の鉄板を手引のノコギリで一所懸命切っていた。所長の指示でサイエンス・パークの門にする材料を加工しているのだが、あまりにも効率が悪い。修理から戻ったジグソウがあるから金属用のジグソウの刃を買って来て、それで切ったらよいと指示した。もちろん刃を買うのはこちら持ちだが。

 そこで、お昼にマンダ・ヒルでボシュの金属用ブレードを約650円で3枚購入した。NSCでウンデケ達が試してみると快調に切断が進んだ。作業が順調だったので、安心してオフィスで雑用をしていたら、ジグソウが動かなくなったと彼らがやってきた。直ったばかりのはずなのに、こんなことならもっと頑丈な機械を買わなければならないかななどと話した後、ウンデケ達はジグソウを分解してかまわないかというのでOKして雑用に戻った。しばらくして彼らが戻ってきて機械の内部を見せて説明するところによると、モーターのブラシが磨耗したのが動かなくなった原因とのこと。前回の修理では、純正でないパーツを取り付けて、しばらく動くようにしてあっただけだということがわかった。(1年間の保証とはこういうことだったんだな)新品のブラシさえ買えれば完全に直りそうだ。明日、タウンに出かけてブラシを探し、見つけたら買ってジグソウを直し、見つからなければ新しいジグソウを買おう。

 昨日のU氏に続けて、今日がN氏と夕方に散歩する最後の日になった。半年間いろいろお世話になりました。

 その後、中国飯店で夕食をとっていたら、N夫妻が来店されたので、お店の娘さん達との記念写真を撮らせていただいた。
   
20041018 お土産を配った
 ムエンベが6時半頃にベルを鳴らしたのでびっくり。8時半になったら自動車の免許を取りに行くので早く来たようだ。ムエンベに日本からのお土産を渡して、少し雑談。ところが、お金が無くて食料が買えないから給料の前借りをしたいとのこと。了解して10万クワチャを渡した。

 オリバーは化膿した指を切開してもらうためにお休みなので、ムエンベは洗車もしてくれた。

 NSCでは、タイルの貼ってある床と屋外の階段のワックスがけ?クリーナーの女性達がはだしになってがんばっていた。

 何人かと帰国の挨拶を交わした後、スタッフに100円ショップで買った電卓をお土産として配った。白、ピンク、青の電卓があったのだが、青の人気がダントツだった。こんなことなら日本でもっと青を購入してくればよかった。それ以外に、エルビスには携帯の光るアクセサリと、モバイルラボ用の水ポンプに使う灯油ポンプを渡した。ちょっとずつだがスタッフ一人ひとりと話せて楽しかった。

 日本に行く前マラリアで苦しんでいたレイチェルはとても元気になっていたが、頬がそげたようにやせていたのでびっくり。前回のマラリアが初めてのマラリアだったので症状が重かったとか。今では、もうすっかり良くなって、体内に全くマラリア原虫がいないそうだ。良い食事とフルーツをたっぷりとることと言われているとか。

 ところが、最初に挨拶するべきだったNSCの所長はベトナム方面にサイエンスのコンフェレンスがあるとかで海外に滞在中。25日頃まで不在だそうだ。

 午後は、J***事務所に日本で受けたA型肝炎・B型肝炎・狂犬病・破傷風の予防注射の領収書を届けた。それと、模型店で購入したゴム動力飛行機の図面をテクニシャン達の為にコピーした。また、教育関係で活動する隊員の調整をしているK氏と隊員対象の研修会の必要性などについて少々雑談した。

 夕方はU氏、Y氏、N氏とムルングシ内をいつものように散歩。U氏は明日ムルングシの借家をひきはらう。そのため、今日屋内の点検をしてもらったそうだが、特別に注文がついたことはなかったとか。(それなら自分の時もちょっと安心だ)U氏は、夜に夫人とともに借家に挨拶にいらっしゃって、残ったネジ・釘や接着剤などをゆずってくださった。明日の晩からは出国までインターコンチネンタル・ホテルに宿泊されるそうだ。

20041016-17 時差、デジタルカメラ壊れる
 ルサカに戻ってすぐに仕事が始まるのではなく、週末に2日休養できて本当によかった。時差か気候の違いか、それとも締め切った室内のせいか、眠さに加えて、腕を中心に発疹のように赤いぶつぶつができてちょっと困っている。軟膏をつけてようすをみているが、十分に休養をとることを優先しよう。

 16日は当地の夜11時から翌朝6時までゆっくり眠れたが、17日は午前3時以後、45分置きに目が覚めてこちらも困った。

 16日にNSC(国立科学センター)に日本から持ってきた資材?を持っていったら門がしっかり施錠されていて入れなかった。そこで、17日にもう一度行ったところチャールズがちゃんと開錠してくれた。でも、17日にオフィスで作業しているとチャールズが内線電話でサッカーの試合を食堂横で見ているから門のところにいないよとの連絡、さては16日もそうだったのかな?

 腕が痒い他に困ったのはデジタルカメラが壊れたこと。16日の夕方の散歩にカメラを持っていって、まずプラタナスに似た街路樹の実の写真をとった後、火炎樹の写真を撮ろうとしたら、電源を入れると自動的に開くレンズのカバーが開かなかった。後でよくよく調べたら、カメラのレンズカバーの脇が変形して、レンズカバーが変形した部分に押し付けられて開かない事が分かった。

 理由はわかったが自分では修繕できない。結局、ピンセットでカバーをこじあけたが、撮影には影響しないようなので、このまま騙しながら使う事にした。


20041014・15 出国?帰国
 成田空港第2ターミナルに14:24に到着。3階にあがり、宅配便で送ったスーツケースを受け取ってから航空会社にチェック・インした。アフリカ方面のエコノミークラスは荷物の重量制限が厳しく、オーバーすると超過料金を請求されるので、スーツケースの計量表示を注意して見ていた。秤に載せた直後の表示は20.2(Kg)だった。ところが、ベルトコンベアの上を移動していた航空会社の社員がケースを載せた秤に載ったり、降りたりしたら20.1→20.0に表示が変わっていったので追加料金は無しだった。

 続けて出国手続きをすませ、空港内でシャワーをあび、ラウンジで少し休憩後、お土産にするチョコレート、自分用のラーメンと日本酒などを購入した。

 成田からは17:40の定刻に出発。4時間30分で香港に定刻着。飛行機を降りると通路に自分の名前をローマ字で書いたボードを持った航空会社の人がいたので、本人であることを告げるとE1でトランジットの手続きをするように親切に指示してくれた。ザンビアから日本に向かった時に香港で日航のトランジットカウンターがわからなくて歩き回ったのと対照的だった。階下におりて、トランスポートに載りE1でサウス・アフリカ航空にチェック・イン、荷物の数と座席の位置の希望を聞かれただけで、香港からジョハネスバークまでとジョハネスからルサカまでのボーディング・カードを貰えた。

 サウス・アフリカのジョハネスバーク行きは今回もエアバス340-600。エコノミーだが通路側の席で左どなりが2席続けて空席だったので少々ゆったりできた。日本時間深夜の食事をしたあと、2本目の映画を見終わってから眠りについた。十分寝た印象で目覚めてみると日本時間で朝の6時頃、しかもたった2時間しか寝ていなかった。結局続けて眠れたのはこの2時間だけで、ジョハネスまでの12時間半はいろんなビデオのつまみ食いで時間をつぶした。ところで、サウス・アフリカ航空の個人用画面で見られる映画には日本語版のものがある。今回は見栄をはらずに日本語版映画を2つ楽しんだ。

 ジョハネスバークにも定刻に到着した(機長さんはアナウンスで"春の朝"に到着ですと言っていた)。すぐにトランジットのセキュリティー・チェックに向かったが、エレベーターと階段から来た乗客が無秩序に合流する通路の先に一人ずつしか通過できない入り口あった。エレベーターを降りた乗客はそのつもりでなくても列に割り込むし、階段からの乗客はいくら待っても前に進まないのでどの乗客も不快な顔をしていた。

 なんとか出発ゲート側に移動して免税品店などを少しチェック。日本に向かったときに綺麗だと思ったタンザニア・ブルーの値段を聞くと、最低でも600ドルだった。

 ルサカ行きの出発ゲートで飛行機に向かうバスを待った。ここでも定刻に出発、定員が100人ちょっとのB737。ジョハネスバーグとルサカの間ではサンドイッチがいつも出る。それを食べて文庫本を読んでいる間に約1時間半の飛行が終わりザンビアのルサカ国際空港に到着。降下中に雲が多く厚いのに気がついたが、地上では雨は降っていなかった。

 午前11時少し過ぎに入国審査に向かった。日本人乗客が二人降りて来たので聞いてみると、アフリカ地域研究の京大大学院生だった。

 荷物を受け取ってできるだけはやく借家で休養しようとベルトコンベアの前で待ったが、最後のカーゴのケースが到着しても荷物は出てこなかった。私の荷物が来ていないと係員に言うと、「3時の便があるからそれで来るよ」と落ち着いた返答。結局、窓口にいって荷物のタグを見せると、コンピュータは荷物が現在ジョハネスバーグにあると表示した。窓口の女性の指示で、16時にまた空港に来ることになった。彼女にどうやって税関窓口内に入ればいいのかと聞くと、直接入ってきてかまわないとの返答だった。

 院生達がすべての荷物をチェックされている脇を通り、手荷物だけをもって税関を通過した。出口で京大の先生が学生を待っていらっしゃったので、様子を説明して空港から出た。

 アディット旅行社の迎えのドライバーは辛抱強く待っていてくれたので、ムルングシの借家までまっすぐに戻る事ができた。車窓から見ると、ジャカランダのうす紫の花は少し残っているがほとんど終わり、真っ赤で鮮やかな火炎樹の花が盛りに近づいているようだった。

 借家では、ムエンベが仕事を切り上げるところだったので、手荷物にしていたチョコレートを渡してちょっと挨拶。彼によると、月曜日から雨降りがあったようだ。空港を降りたときに、雨続きの東京と同じような空気だったのはそのせいだったのかと納得した。

 借家内は、不在中にもメイドのバンダさんが掃除をしてくれたので全く?問題無し。早速シャワーを浴びて、手荷物の整理をした。やっとヒゲも剃ることができてさっぱりした。

 主寝室につながるバスルームのトイレは不在中水道の元栓を締めておいたので、使おうと思って栓を緩めた。水がタンクに溜まる音を確認してからしばらくして戻って見るとパイプから漏水。バスルームの床は水浸し。(ザンビアに戻ってきたと感じたと書いたらザンビア人に失礼かな)修理を頼んでも来週になるだろうから、トイレは別のバスルームを使うことにした。

 自家用車のサニーのボンネットを開けて、はずしておいたバッテリーのターミナルをつなぎ、エンジンの調子を確認。全く問題無し。しばらく暖気運転した後、ブレーキのロックをとってから、J***事務所に帰着(帰国?)の報告に行った。調整員のDさんによると雨季は例年より早く、ここ数日は寒いので風邪に注意して休養をとってくださいとのことだった。スーツケースが16時に別便で着くと話したら、J***関係者は大抵同じ経験をしているとか。

 J***事務所を出てそのまま空港へ行った。駐車場に車を置いて、到着出口から逆に入ろうとすると中にいた空港職員にとめられた。直接入ってかまわないと言われていたがセキュリティー上もおかしいと思っていたので、ここは素直に言う事を聞いた。出国窓口の係官の指示でセキュリティー・チェックを受けたあと、係官の誘導でcrew用の通路を通って荷物が出てくるベルトコンベアの前へ向かった。自分の荷物はすでに別の空港職員がベルトコンベアから拾い上げてあり、"EXPEDITE BAGGATE" "RUSH" (要迅速処理手荷物 急げ!)という赤い文字のタグが付いていた。窓口で受領のサインをして税関も申告品無しということで通過、ムルングシに戻った。

 そのまま、ムルングシのジェネラル・マネジャーに挨拶に行き、預けてあった借家のスペア・キーと使用人の作業記録のコピーをもらった。自分の不在中に使用人達は鍵をうけとりにレセプションまで来てくれたのだが、多分そのたびに不快な思いをしたと思うのでちゃんとしたお土産を渡さなくては。

 夜はY氏と中国飯店で夕食。入店するとこれまで見た事もないような会食会の準備がしてあった。それと同時にSVのN氏夫妻も来店。この会食会は来週帰国されるN夫妻のためにZASTI(Zambia Air Service Training Institute)が開いたものだった。J***のI所長や隊員のM氏、それにZASTIのお歴々が徐々に集まって来た。

 会食とは別に、店員のナオミとチェリッシュにお土産のチョコを渡し、お店のみなさんと分けるように伝えた。

 Y氏とちょっと多めの夕食を1時間半ほどかけて済まし、この日は終わり。でも、Y氏とお店を出る頃になっても、ZASTIの食事はまだ始まっていなかった。(11時に終わったそうだ)
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